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手描き絵付け HAND PAINTING
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栄木 正敏 |
私は、1970年に私の師である笠間の曾田雄亮先生の工房を辞して瀬戸に舞いた。昔から「ろくろ10年、絵描き7年」といわれ、一人前の職人になるために、多くの人が苦しい修行や血のにじむような研究を個人で余暇に行ってきた歴史がある。瀬戸ではへそくりのととをマツバリ」と言い、心あるヤロ(丁稚)が人知れず一人前の職人になるため練習した作品を「マツバリを焼く」と言う。多少意味合いは違うが、私も「マツバリを焼く」ようなことをしていた。日中の8時から5時まではタイル工場などで肉体労働をし、夜は好きな食器やノベルティー制作をしていた。そのころ、1970年に東京の消費地問屋で修業ていた故・杉浦豊和と出会うこととなる。出会って間もない杉浦豊和と私の二人は、専従ではないが食器工場で働いていた。その杉浦とは、数年後の1973年4月二人で会社を立ち上げることになるのだが。 26歳のころ、手描きの食器の紋様に憧れていても、陶器に絵を描くことに全く手が慣れていなかった。形状だけのデザインでは東京の大手商社になかなか気に入ってもらえず、それならと私が陶器の破片に平筆でちょっと下絵を描いたものを営業役の杉浦豊和が参考までに東京に持って行ったことがある。その破片を見た同じ商社の営業部長の眼が肥えていたかどうか分からないが、とても気に入ってくれて、新作見本作りを、とのこと。待ってました、とばかり、20アイテムほどの手描きの新作テーブルウェアの見本を作り、見せに行くと、思いもかけない大量の注文が舞い降りた。 当時の日本の輸出型地場産業はどこも似たようなことであったと思うが、他の工場も瀬戸の工場と同じで、米国のバイヤーの下請け的な仕事に甘んじていたために欧州製品のイミテーションをいかに安く、大量に作るかというようになっていたこともあり、手描きの上手な職人がいなくなっていたのだ。 そこで陶器の絵付けがほとんどできない私が、無謀にも一人で1年半ほど、日曜もほとんど休みもなく、大量の注文に追われ、朝の9時から夜の11時まで、一つ一つ、もっと良い絵付けをと思いながら、無心に単純な手仕事に没頭した。絵付け作業を自然に体で覚えたということなのか、自分が考えた紋様デザインでも、初めのおずおずとした絵付けのものと1年ほど後のものとを見比べてみると、スピード感のある筆力の清々とした無駄のない絵付けになっていたのには、自分なりに感心したものだ。一人で1日400個ほど、合計10万個以上の絵付け作業をしたことで、東京駒場の日本民芸館に多数収蔵の地元瀬戸の洞窯で200年も作られた石皿など、骨董品の絵付け陶器を見る眼も出来た。そして、専門の絵付師を養成することとなる。 そのころ読んでいた本の中にあった有名な柳宗悦の言う無心の民衆工芸というか、彼の唱える民芸論を自覚することができたように思われた。ただし、柳の唱える戦前の民芸論の時代に比べて、手描きや成形の専門の轆轤師もいなくなり、職人が手薄な今の時代、どうしても日々の暮らしの器には高価になってしまう。せめて、デザイン的な視点から、型成形の効果を生かした形状と手描き絵付けのコンビネーションがベストと思った。 そして、27歳の時のデザイン、最初の量産製品となったこの手描きカップ&ソーサーは、40年後、晴れて東京国立近代美術館の個展会場の最初の展示台を飾ることができた。この作物は、同美術館の収蔵となった。 私の娘がSNSでこのカップ&ソーサーの愛用者を発見。hiiraraさんという方から娘に届いた伝言文を紹介したい。 |
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