作品の創造者である個人が主張することによって陶芸が確立されたといわれる。
明治の陶磁器は輸出の為の殖産振興として国の名や、また分業による手作り産業としてディレクター役の窯主の名が冠されて、絵師やろくろ師、図案家の影は薄いものであった。大正、昭和のはじめ冨本憲吉が素材を駆使し、自らのアイディアと手業で個人を主張し、陶芸を確立して約80余年が経つ。
それでは陶磁器のデザインはどうかといえば、戦前にノリタケなど大手の図案部は早くからあったが、過去に世界の3割、世界1の生産をしていたにもかかわらず、創造の主体者としてのデザイナーの名や存在感は大メーカー製品には今だ無いと言える。
陶磁器デザイナーを大きく取り上げたのは最も早い時期の1997年の愛知県陶磁資料館の「森正洋陶磁器デザイン」展(担当は唐澤昌宏氏)、その後の2002年わが国の中心的美術館とされる東京国立近代美術館の「森正洋‐陶磁器デザインの革新」展(金子賢治、諸山正則、北村仁美の各氏担当)があった。また2006年の茨城県陶芸美術館「日本陶芸100年の精華」(外舘和子氏担当)が創造性を主体に選択された明治より現在までの陶芸品の中に陶磁器デザイン分野で森正洋、會田雄亮、小松誠、栄木の4人の作品を丁寧に取り上げている。陶磁器デザインが冨本から約80年後の2000年前後にやっと一般に文化としても認められるようになった。
瀬戸の主たる陶磁器産業であったのは、ノベルティーである。それらはマイセンやドレスデンの模倣による磁器人形の精巧な置物で大正初期から1984年まで隆盛し、北米向けに大量に輸出された。しかし、日本人の感性やアイディアはまったく無く、技術と経済偏重が主軸を占めたと言える。当然、原型師は多数いても個を主張するデザイナーの存在はこの瀬戸にはなかったのである。
瀬戸には古から「マツバリ」という言葉(余録の意)があり、通常の時間外にろくろ師、絵付師などになる為にヤロ(新前職人)が品物造りの練習をするのが普通であった。
私もヤロをしながら夜間に好きなデザイン試作を続け、その試作を元に企画・生産・販売の会社を29歳の時に立ち上げた。陶芸品や美術品は使用者に渡っても作品である。私の物はデザイン作品からその後に工場で製品、売場で商品、買った使用者は道具としての食器と名前が変化する手強い物だ。それぞれの場で良かったり、悪かったり、判断が違ってくるものである。例えば森デザインは作品として一流の学芸員、研究者等にすでに文化として認められ、デザイナーが故人なっても生産されて、良いものとして使用者に愛着を持って日常に使われ続けられているのである。
わが師のひとり芳武茂介はデザインしたものには必ず文化財と経済財の両輪が肝要であると言っていた。この両輪はこれからの日本の陶磁器産業に求められる重要なテーマであり、より力のある陶磁器専門デザイナーが産地には必要なのである。2011年1月8日〜2月13日まで「栄木正敏の陶磁器デザイン リズム&ウェーヴ」展 東京国立近代美術館にて開催された。開催中の2012年2月 東洋陶磁学会 東京国立近代美術館講堂にて発表