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森正洋を伝える会/著ナガオカケンメイ/企画
美術出版社刊2012年2月25日初版より転載
「森正洋の言葉。デザインの言葉。」

「森正洋の言葉」構成・取材 渋川裕子 

談・栄木正敏(プロダクトデザイナー)
 栄木さんと森正洋さんとのかかわり:栄木さんにとって森さんは、陶磁器デザイナー、教員との2度にわたって導いてくれた「職業案内人」大学で一緒におしえるようになってから親しく接せるようになった。客員教授になった森さんの運転手役を進んで勤め、空港までの送り迎えを進んで勤め、空港までの送り迎えの車中でいろんな話をした。
 やきもののことはもちろん、政治や社会のことまで、読書家の森さんは何でも知っていたと語る。

教育者としての森正洋
 僕と森先生との初対面は、それは強烈でした。 
 僕が31、2歳のときかな。当時、日本クラフトデザイン協会が主催する「日本クラフト展」が毎年銀座松屋で開催されていました。その会場にやってきた森先生が、いきなり僕に対してめちゃくちゃおこったのです。大勢の人がいる前で「こんな手ずくりのものをやって」と、大声で。
 その時、僕は手作りのモノと、型で作るモノと2種類出品していました。森先生としては先生と同じ量産のデザインをやっていると思っていた。けれど、手作りに手を出して、中途半端なことをやっている。そんなでは横道にそれちゃうじゃないかと危惧したらしいんです。だから、面識も見ない若者に向かって、おせっかいで。

 僕が初めて森先生の存在を知ったのは、高校性の頃だった。名前よりもモノでであっているのです。
 親と一緒に74日本橋の三越の陶器売り場に行ったとき、古臭い食器ばかり並ぶ中に美しいポットがあって。美しい曲線の器体に、青緑色の蓋と籐でできたハンドル。形がものすごくいいと思って買って帰ってきたのです。今で言うと2500円くらいだったかな。
 それから毎日うちでは紅茶のポットとして使っていたのです。
 それから間もなくして、雑誌「美術手帳」の増刊号「グットデザインへの招待」(1960年刊)が発売されて。そこにこのポット(58年作)の写真と「森正洋」という強そうな風貌を発見したのです。その記事を見て、こんな風な実用的だけど、人を刺激するモノというか、ちゃんとつかえて日常的に愛着を持ってもらえるモノを作りたいなあと思うようになりました。
 僕が愛知県の瀬戸いう、伝統的な焼き物の産地に住んで制作をするようになったのも森先生の影響なんです。
 森先生は、学生時代に終戦を迎えています。一夜にして世の価値観180度転換する経験をしました。昨日まで権力を持っていた人が逃げ回っている。そんなさまを目の当たりにして、自分はもっと人びとの生活に必要とされる確かな仕事がしたいと思ったそうです。それで、陶芸の世界はではなく、日常の食器を作る道を選んだ。陶芸というのは、基本的に一点モノの美術工芸で、権力者やお金持ちを相手にしていますから。
 それで、先生は高級磁器の産地である有田でなく、波佐見に向ったのです。波佐見は江戸時代から庶民の雑器をつくり続けてきたところ。昭和初期から「鋳込み」で食器を量産していました。鋳込みとは、削った原型を基に石膏で型を取り、そこに土を流し込んで成形し焼き上げる技術です。億も産地に住んで、土や釉薬、紋様、成形、焼成など据えての工程に係わる中からデザインをやろうと決意したのです。

 あの怒鳴られた一件から先生とは行き来がなくて、僕が40台半ば過ぎになった頃、ある日突然うちに電話がかかってきました。2年前から愛知県芸術大学の教授をやっていた先生が、宇久に教員をやらないかって声をかけてきたのです。
 ありがたくしき受けてしき受けたものの、それからは2年間先生と同じ研究室で過ごすことになって。先生は常勤で、周に1回は九州からやってくる。雲の上の偉い人がしょっちゅう側あれこれ言ってくるものだから、そりゃあ、けむたかったですよ。先生が来る日はなるべく学校に行かないようにして。仕事の痕跡を残さないよう、学校ではいっも掃除をしてた。
 後に大病をされるのですが、数年たって今度は客員教授になったんですね。その頃はだんだん僕も先生に近い図居てきて、普通に話せるようになっていました。それで、2か月に一度、先生が来るときには敬意を表して空港まで送り迎えして、カバン持ちをして。年の離れた偉い長男に接するにみたいな気分でしたね。
 森先生は、最高の教育者だったと思います。
同じ研究室だった頃は、一緒に課題を考えたり、評価したり、していました。先生は基礎造形すごく大事にする。そこが他の陶芸家の先生とはちがっていました。
 たとえば、立方体や球といった基本形体から、伸ばしたり、縮めたり、付けたり、と連続的にボリュウムのある形のバリエイションを作る課題。自由な造形力の練習ですね。それからテクスチャー、肌合いの実験。あとはティーポットやスツール等のガーデンファニチャーの課題なんかも一緒にやっていた。近代でデザインというかな、バウハウスの教育の影響をうけていましたね。
 ふつう、大学の教員っていうのは経済的な理由もあってやってるひとが多い。でも、先生はそうではなかった。月給のためだったら、九州から飛行機で毎週通いませんよ。後進を育てたい。世の中のためになりたい。純粋な動機だったと思いますね。厳しい先生だったけど、学生には人気がありました。
 そうそう、93年の退官時には、先生は作品を2つ作って学校に寄付したんです。
一つは大学のマークをモチーフとしてデザインし、そのパターンをつけた食堂用の食器。プラスチックでなくて、陶磁器を使ってもらいたいって。もうひとつは、奏楽堂に置く大きな組み合わせ花器。それまでパチンコ屋にあるみたいな金属の花器があったのを、「これを直したい」と。学生20人くらいと一緒になって土からつくりました。食器はもう使われていませんが、花器は今も入学式や,卒業式の時に花を活けてます。

 2000年頃から、森先生のデザインが一般誌でも取り上げられたり、国内外の美術館で展覧会が開かれたりして、世間から注目されるようになって。先生が亡くなる年の2004年に岐阜県現代陶芸美術館で開かれた展覧会のギャラリートークには、部区も学生たちを連れていきました。会場に着くと、たくさんの若者がいて、熱気で溢れていて。ようやく陶磁器デザインという分野が日本の社会で認められたんだなーと実感しました。
 陶磁器デザインはそれまで、陶芸と違って美術の本道とはみなされていませんでした。でも、100万円の壺と同じように、1000円の醤油差にも価値がある。それを何十年もかけて世に認めさせたのが森正洋、その人だったのです。

○この本に記載の略歴
栄木正敏(さかえぎ・まさとし)
プロダクトデザイナー。栄木正敏デザイン研究所主宰。
愛知県立芸術大学名誉教授。1944年生、千葉県生まれ。65年武蔵野美術短期大学専攻科卒後瀬栄陶器デザイン部勤務を経て、'73年に(株)セラミックジャパンを杉浦豊和と共に設立。'77国井喜太郎産業工芸賞、'81、'86バレンシア国際工業デザインコンペティションで2度大賞を受賞 他受賞歴多数。2011年東京国立近代美術館にて「栄木正敏のセラミック・デザイン−リズム&ウェーブ」展開催


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