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森正洋の思想と実践
栄木 正敏 

 今年の6月12日岐阜県現代陶芸美術館での「モダンライフを彩る器-森正洋のデザイン」展に合わせてギャラリートーク「森正洋-自分史を語る77年」がおこなわれ、私は学生と共に出かけて行った。会場は岐阜.愛知の若者の熱気ですでに充満。担当の同館学芸員高満津子氏がせいぜい20人~30人と予定していたのに椅子が足らなくってと。作品展示のガラスケースの間に約150人が床に直に座ったり、立ったり、熱心に森正洋先生(以下敬称略)の真摯な永い実践を基とした話に聞き入っていた。年齢よりもずっと若く見える力強い語り口、そして多くの質問に丁寧に答える森の優しさが印象的であった。

 1997年愛知県陶磁資料館、1999年長崎県立美術博物館、2000年ドイツ磁器博物館、ドイツのハレ美術博物館、2002年東京国立近代美術館、そして今年の岐阜県現代陶芸美術館と主だった個展だけでもかなりの数だ。以前はデザイン専門誌が森を採り上げることはあったが、ここに来てモノマガジン(発行 ワールド・フォットプレス)をはじめ、多くの若者向け一般誌までが森特集を掲載している。森の特集記事だけが他のページとはまったく異質で、大変にまじめな内容になっているのだ。森の作品年表まで載せてあって何だかデザインの教科書みたいで嬉しくなってしまう。

 戦後13年を経た1958年森のG型醤油差しが発表され、やっと日本発の世界に誇れる現代の陶磁器デザインが生まれた。特に2002年の夏、日本の美術館で一番ステータスの在る東京国立近代美術館本館でデザイナーとしては初めての「森正洋-陶磁器デザインの革新」(企画担当は一時期 森から陶磁器デザインと製作を学んだことがある同館の主任研究官の諸山正則氏)が開催され、大変好評を博し、多くのメデアに登場したことは承知のとおりだ。そして広大なデザインの分野の中で目立たない、論じられない地味な「陶磁器デザイン」が森正洋の名と共に脚光を浴びたのである。森のデザインした代表作のひとつG型醤油差しはデザイナー名を知らなくても心地よく、愛着を持って使い続けられてきた。何十年もアノニマスで裏方に廻っていた森であったが、森正洋と製品が結びつき一般の人にも知られる事となった。

 国内外の一流の美術館で森展が開催され、一般誌にも多く採り上げられるのは何故か。私なりに2,3述べてみたい。


その1「森正洋の思想とこころざし」
 ギャラリートークの中で話していたが、氏が生きてきた77年間は考えも人も大きく変化した時代であった。敗戦後自分は何をして良いか解らなかったと言う。有田工業学校(旧制)を卒業し、たまたま「反骨の陶芸家」と形容された九州の陶芸家第一号と言うべき松本佩山の弟子となり、石膏やレンガを再生し、窯や工房造りの手伝いをしたそうだ。自分の意思で戦前、戦後も変わらず力強くものつくりをしている松本先生の生き方に魅力を感じたが、反面、その作る作品の方向にはあまり関心は無かったようだ。それは戦後あらゆる本が出版された中で、森は本をいつも乱読し、そこから大衆社会のデモクラシー思想に強く惹かれていたからである。松本先生の「陶芸」の究極の方向は宮内庁御用達や、昔の殿様のような権力者や御金持ちの為の美術工芸であったからだ。弱冠20歳にしてすでに物つくりの根っこが思想から入って「陶芸」でなく、美術と社会と生活が結びついた「デザイン」の方向に向かわせたことが解る。後になって森は、私のポリシーと題して、[日常の生活で使う器を考え、形を創り 工場で生産することにより、多くの人と共に共有し 生活することに、デザインの喜びを感じる。] と書いている。当時の陶磁器デザイナーは、美術学校を出て本当は画家や彫刻家に成りたかったが生活の為にメーカーのデザイナーになった人が多かった。が、森は違っていた。多摩美大(旧制)を出て最初からデザインに情熱と意義を感じて仕事に邁進した人であった。古くは明治期、東京豊島の竹本隼太、横浜の宮川香山等日本の各地で近代産業と美術とが一体と成った陶磁器作りが興った。しかし大正期となり、今で言う陶芸作家の板谷波山等の美術を主張する人が出てきて、「美術陶器」と経済性を第一義とする「産業陶器」と日本の陶磁器ははっきりと「文化」と「産業」に分離して相互の人的交流も途絶えたかに見えた。明治期の石膏型や機械を使用して量産をしていた竹本隼太、昭和期に一品製作と平行して安くて良いものを瀬戸や波佐見など各地で試みた冨本憲吉がいたが。戦後大分して、美術と産業の隙間を埋め、かつ融合させて大きな効果を上げた人の代表が森なのである。

その2「世界へ発信する地場型デザイナー」
 私の恩師の一人 故芳武茂介先生は「工芸ニュース」、「デザイン」誌などに森の展覧会評を書いて、授業で九州に住む森の固持奮闘ぶりやその仕事の素晴らしさについて話していたことを思い出す。いたく感動し、20歳の私は陶産地に行って仕事をしたいと思ったものである。デザイナーには都会型と地場型の二つのタイプがあると思う。やはり陶磁器デザインをするには、森のように産地に居たほうが都合が良い。焼き物工場の近くに居て常に土、釉薬、型、成形、模様、焼成など焼き物のことなら何でも知って、体に染みつい付いているのが陶磁器デザイナーと思っている。 私は今年、大学の海外研修で1ヶ月間にわたり欧州陶業とデザイン事情を観る旅に出た。この旅の大きな目的のひとつは4年前に森個展が開催されたドイツ磁器博物館とバウハウスが近くにあるハレ美術博物館を見学する事であった。ドイツ磁器博物館はゼルプ市郊外のホウエンバーグにあり、田舎の小さな街であったが、陶業関係の人にとってはとても有名な所た。周辺にある世界的に有名なローゼンタール、アルツバーグ、フィチェンロイターなど多くの大工場があるドイツ陶業の中心に位置する。この地の磁器生産技術、デザインから明治期より日本の陶業は多くを学び、模倣に近いことまでしてきた憧れの土地でもある。博物館は近現代陶磁器のすばらし内容とディスプレーでさすが磁器の先進地だと感じた。この様な世界的な本場で「森正洋-日本の現代陶磁器デザイン」展が開催された事は日本の陶業史に残る快挙であった。 森こそ常に世界に発信する地場型のデザイナーであり、数少ない提案型のデザイナーだ。そして提案を製品化してしまうパワーと組織力には頭が下がる思いだ。 ある本によれば九州在住の「美術家」のうち、その作品が世界に通用する人はと問えば第一に森正洋を上げねばならないとあった。

その3「時代が森デザインを求めている」
 1997年有名なイタリア国立ファエンツァ国際陶芸博物館では、ファエンツァ国際陶芸展の第50回の記念展「世界のデザイナー10人」展があった。日本より森正洋をはじめ小松誠、栄木正敏の3名が招待出品となり、同博物館の新館で著名なフィンランドのティモ・サルパネパ、イタリアのアンブロジオ・ポッジィ、ドイツのハンスthバウマン等と共に美しく展示していたのを直接観て、ひさしぶりに感動した。今の日本人よりも欧州人の方がデザインを文化としてとらえ「日用の美」を大切にしていると感じた。欧米ではファエンツァの博物館の様にアートと同格に日用品のデザインをきちっと、展示している所が多い。日本の美術館は近現代の日用のデザインに価値を見出せないのか、参観者の興味が薄いのか、その様な展示は少ない。今、森展が開催されている日本陶業の中心に位置する多治見市に素晴しい岐阜県現代陶芸美術館が出来た。日本の美術館があまり関心を示さなかった内外の現代陶磁器デザインを多数展示収蔵している事は注目に値する。20代、30代の高学歴化は海外旅行や美術館にも行く人が多くなり、インテリアやテーブルウェアーに関心を持つことが多くなって、自分たちの部屋を快適に設え、デザインに関心を払う事が教養のひとつに成りつつある。そして一般誌までもが日本のデザインを創りだした渡辺力、柳宗理、長大作、そしてこの森正洋を作品と共にモノつくりの思想までも詳細に採り上げるようになって来ている。時代が丁寧な暮らし方を求めているのかも知れない。

その4 「本当の教育者・森正洋」>
 ギャラリートークで多くの若者の熱気が充満した会場を見るにつけ、森は今も若者を惹きつける何かがあると思った。私の勤務する愛知県立芸大(現在森は 陶磁専攻客員教授)に30年もの間、そして九谷、多治見、九州の各地でも教育活動をして来たという事だけでない。全国の産地や消費地の若者への影響力はなはだ大きいものがある。1950年代後半からの長いデザインワークから生まれた膨大な製品群に魅了され、憧れを抱いて産地の陶磁器デザイナーになってしまった人を私も含めて何十人も知っている。結局森は産地に若者を根づかせ、日本に真の意味での陶磁器デザインを確立させた人と考える。
 ギャラリートークの終わりに私は森に質問してみた。今どんな仕事をし、これから如何されるかと。答えは30数点の食器のデザインが終わって、これから生産に移行する段階で、何軒かの工場で生産していく予定だと。たんたんと語る、陶磁器デザインに携わって50年、今年77歳になる森の言葉であった。 思えば私が16歳のとき、森デザインを初めて見て、使って、この人はすごい人と思ってから44年、森正洋は、やはりすごい人、誠に格好いい人であった。


2004年9月出版のプロダクトデザイン「PDの思想」(編集 三原昌平  事務局三原デザイン事務所 発行所 株式会社ラトルズ)に栄木正敏が寄稿


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