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東京国立近代美術館ニュース「現代の目」585号Dec.2010−Jan.2011
特集1 栄木正敏のセラミック・デザイン−リズム&ウェーブより転載
私の陶磁器デザインと「3つのびっくり」
栄木 正敏 
 2010年、年が改まった1月4日午前、我が家の電話が鳴った。「栄木さん、個展が決定しましたよ。」と金子賢治氏(当時の工芸課長)からの電話であった。3日の誕生日からまだ数時間、信じられない事が現実に。自分におめでとうが、重なった「びっくり」の瞬間であった。
 近美ニュースと同じ名の‘63現代の眼:暮らしの中の日本美展や、‘64現代国際陶芸展などを開催した京橋の近代美術館は,私がまだ武蔵美の学生だったころから勉強の場であった。特に現代国際陶芸展では世界の見たこともない焼き物に出合った。その時の講座にアラビア社にいた私の師・加藤達美の北欧陶器の話と、加藤先生の師でもあるデザイナーのカイ・フランク氏自身と石膏原型作業の回転する石膏板上から氏の作品が生まれ出るイメージ映像があり、陶磁器デザインを勉強中であった20歳の私はとても感動したのだ。その後も、上京する時はいつも東近美詣でをしている。私の仕事人生中、想定外の「びっくり」が3つある。2011年、冬の東京国立近代美術館での個展は私自身の3番目の最後を飾るに相応しい「びっくり」仰展に入る事だろう。

 陶磁器デザインとの出会いは1960年東京での日本最初の世界デザイン会議のころである。
 当時の私は出揃い始めたオートバイ、自動車、家電の絵を授業中にノートの端に描いてばかりの内気な高校生。そのころ日本橋三越で親と一緒に陶器の売り場に寄った。棚にある古臭い食器ばかりの中に「掃き溜めに鶴のごとく」美しい土瓶を見つけた。あまり陶器類に関心がなかった私でも誠に新鮮なデザインと感じ、思わず買ってきた。この土瓶が、当時の古くて小さな我が家を少し文化的に変えるたように思え、毎日ように紅茶ポットとして使っていた。世界デザイン会議を記念して出版された美術手帳の別冊「デザインへの招待」のページを捲っていると30人ぐらいのデザイナーの中に偶然にも紅茶ポットとして使っている土瓶と同じ写真図版と「森正洋」の強そうな風貌を発見。そんなことがあって、内気な少年が少し明るくなり、高校生でも買えるこんな格好いいものが自分でもいつか作ってみたいと思うようになったのである。
 私の学生のころは、東京のデパートで海外デザインを紹介する展覧会がよく開かれ、デザイン好きな学生には良い環境であった。印象に残る展示はフィンランド展、幻想的な白夜を思わせるティモ・サルパネバのディスプレイの中に今でも眼にするガラス器、陶磁器、テキスタイルの数々。メーカー製品とは違う個性的なデザインの森正洋、安藤光一、芳武茂介、内田邦夫、加藤達美、スティグ・リンドベリーなどの展示を見て廻った。デザイン系の本の中で思い出すのは「デザイン」誌巻頭文に掲載の評論家の文章「デザイナーは野に下れ」や「工芸ニュース」に載った米国で陶磁器デザイナーとして活躍し、帰国した會田雄亮(後年、笠間で氏の助手となる)のディナーウェアの写真と文章、芳武茂介の「北欧デザイン紀行」など、東京ならではの製品と本からの情報が何も知らない若者の心と体に刺激となり陶磁器デザイナーへの夢を強く抱いたのだった。
 44年ほど前、名古屋や瀬戸で働き始めたころ、世界の3分の1〜4分の1の陶磁器を日本が生産し、北米をはじめ、世界各国に輸出していた。名古屋港からの輸出量は自動車を凌ぎ、半分を占めるほどであった。集団就職の若者や外国人の貿易商が目立ち瀬戸の街は活気を呈していたころである。このような「陶器現場」から私のデザインは始まった。朝の8時〜夕方の5時は小タイル工場の土つくりや押し出し成型、窯詰、貴重な夜と月4日の日曜、瀬戸の古い言葉にある時間外に人知れず作品を焼く事の意の「マツバリ焼く」をした。深夜まで食器デザイン試作を自分の仕事場で制作し、朝には弁当を作って近所の陶器工場に出かける毎日。この様な事は陶芸家に夢を託し、全国から集まった若者の1つの行動パターンであったように思う。
 「デザインを欲しがっている工場があるよ」と石膏作業中の深夜、東京蛎柄町の消費地陶器問屋で修行して来た故・杉浦豊和が仕事場に訪ねてきた。後に2人の若者のこの出会いが瀬戸に手描き絵付け模様を看板とした大きな名前の小さな会社(企画・生産・販売)の設立となる。製品はすべて学生の時に考えた栄木マークやデザイナー名をいれ、デザインが本物である事やデザイナーの存在を主張する証とした。当時、瀬戸では和食器のデザインは伝統デザインの模倣アレンジに価値があり、洋食器やノベルティは欧米貿易商の持ち込むデザインで事足りていて、デザインとしての「独立」はなかった。まったく今の中国と近似していて、500も陶磁器工場が林立しているのに陶磁器デザイナーもデザインを望む工場も皆無の状態であった。一方、波佐見の森正洋、砥部の工藤省治の活躍が専門筋で知られ、国内向けに新デザインを求める時代でもあった。
 1977年の秋、会社を設立し5年目の33歳、突然、国井喜太郎賞という聞いたこともない名の受賞の知らせをいただいた。ゲゲゲの鬼太郎なら良く知っていたが、なんだろうと調べると国井はデザイン界の偉い先人である事と第一回に師である芳武茂介、森正洋の2人が受賞していることを知った。産地にいてまったくデザイン界とは無縁、好きな絵付けと商売をやってきた私なのに。これが第1番目の「びっくり」賞となる。
 1997年の春、イタリアから1通の手紙が届いた。コンペの応募要項ではと、封を開けるとMasatoshi SAKAEGIの文字が目に飛びこんできだ。なんだろうと英和辞典を取り出し読んで行くと、それに森正洋、小松誠、私と3人の日本人を含め、計10人のデザイナーが書いてあった。欧州の世界的なデザイナーばかりにはびっくり。ファエンツァ国際陶芸展第50回記念特別展「世界のデザイナー」10人の招待出品者名が英文で書かれていたのだ。これが第2番目の「びっくり」10人展であった。

 私がデザインを始めたころには、デザイン依頼は皆無であり、瀬戸の自宅工房で量産の為の提案、試作実験ばかりであった。陶磁器は5感に訴えるもの、小さく手の内にあり、0コンマ何ミリの微妙差で見た目の表情、使いやすさが、がらっと、変わる。焼成して10〜20%も縮小、変形するもので図面通りにはなかなか行かないものである。陶磁器はデザイン、原型制作、成型、成形、仕上げ、乾燥、素焼、絵付け、釉薬調合、本焼、上絵など工程が複雑で分業が普通である。自らの手と体での各工程作業からデザイン、アイデアが生まれる。我家は焼成までの試作品の制作の場、使用テストの場でもあり、製造の現場、使用者の立場の検証の場でもある。自分自身が広報担当であり、個展や国内外の展覧会や海外見本市にも出品し、可能な限り主張、展開してきたつもりだ。以前は、まだ花形産業で陶磁器の多様な釉薬や装飾、成形や仕上げ技術を身につけた有能な職人が多く、その技術をベースにデザインの幅が広く、多様であった。現在、中国陶磁器が世界の6〜7割を生産する。1990年ごろから、日本陶業は苦闘の時代に入り、生産額と共に伝統の手技も生産技術も縮小の一途をたどっている。今後、日本の良いものを残し、創り続け、使って愛着の持てる製品造りが重要な課題だ。陶磁器全般の知識や技術を大切にし、デザインに情熱のある陶磁器デザイナーの活躍に期待したい。


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